台風の時、家に引きこもって外に出ずに家族といっしょにいたこともあり、昔話を教えてもらいました。この写真は台湾にて。右下角の写真の一番左の人が今から30年前の祖母です。
祖母の略歴を簡単に紹介
改めて聞くと、輝かしい一面もある一方で、並々ならぬ苦労も経歴していて、凄い経歴だと思うのです。赤が勢いのある時、青が逆境、両方は緑、無関係は黒でラベル。
- 先祖をたどれば士族の家計で、代々芯が座った一族の出との事
- 勉強好き。勉学は優秀で、小学校時代は主席、当時の華族から表彰も受けた。
- 家業の手伝いのため、中学進学を断念し農業の手伝いへ。
当時は皆が中学に進学する時代ではなく、特に女性の最終学歴が小学校なことも普通だった時代。一家の働き手が体調を崩すので、農業をすることを強いられる。弟?が教育を終えるまでは働くことになる。 - どうしても勉強がしたくて、青年学校 (農業をしながら通える学校)に進学。
農業をやりながら、3年+2年?の課程をそこで過ごす。学校とはいっても、実際農業に専念している人が多いので、出席する人は2~3人といった学校であった。 - 師範学校 (教員の養成学校) の受験資格を得て (大検みたいなものに合格し)、入学。
このころの男は中学校、女は女学校を経て、高等教育を受けているのだが、当時は戦時中、周りも何かしらの作業で勉強それどころではなく、学力の総合的なレベルは周りとさほど変わらなかったとの事。ただ、祖母は英語についてはほぼやったことがなく、アルファベットを初めて習うような状態、一方周りはその辺は学校や習い事でやっている状態で、ついていくのは相当大変だったとの事。 - 戦後発の有資格の中学教師になる。
無事師範学校を卒業。今で言う教員免許が交付される。祖母の代が戦後で初の認定された「資格」を持っている世代。各地の学校から引く手あまた。当時の初任給は380円だったが、2年目に1000円となり、地方では高級取りへ。 - 祖父と結婚し、二人の子供を授かる。当時では珍しい核家族で、兼業主婦。同じく教師であった祖父以上に仕事では活躍しながらも、家庭のこともがんばった。
- 周りの諸先生方や教え子に慕われ、教師として活躍する。年度も全国各地である研究会にでかける。司会を率先して引き受けたとの事。
- 養護学校に赴任した際、天覧授業 (天皇陛下の前で行う公開授業) を担当。
- 鳥取県初の女性教頭になる。
- 退職年齢が女性のほうが男性より低いこともあり校長にはなれなかったが、教育委員会に抜擢される。要するに、退職しないで管理職になったということ。関東に単身赴任し、相模原にあった教育研究所へ。積極的に観光にも出かける。
- 自分でやれることはたいてい自分でやりたい人で、93になる今でも、一切介護等はなく、自分の身の回りのことは自分でしている。ボケてもなければ、歩くこともできる (遠距離を歩くのはさすがに難しいのと、腰が曲がり、目と歯が悪くなってはいるが)。僕の両親と同居しているので、ぜんぶ一人でやっているわけではないのだが、それでも凄いことだと思う。祖父が認知症になったときには、自分のことに加えて、80を超える高齢でも老々介護で祖父の介護をして、共働きの僕の両親を支えた。自分のためにも相手のためにも、できることはやるべきだとの事。重い。。
今から60年前、今以上に男であっても出る杭は打たれる時代、それも男尊女卑が色濃い社会のなかで、これだけの活躍をすることは物凄いことだと思います。祖母は、誠実でなければならないと何度も言っていました。やるべきことを一生懸命やること、他人を陥れたり、嘘偽りでその場をごまかしてはならないと。現実を受け入れ、責任をもって目の前のことに取り組むからこそ、周りから信頼されるのだと。自分が言ったことを、自分で破るような人間は誰も信用しないということです。僕自身も、そうだと思うし、意識していることです。そういうところは、祖母曰く僕が祖母、というかその先祖からの特徴を強く持っているとの事。そう考えると遺伝って面白いと思います笑。
子供のころからですが、祖母が偉ぶったり、自分の経歴をひけらかすことは見たことがありません。家庭では、常に祖父を立て、次に家長を継ぐ父を立てていました。むしろ、大人になるまで祖母がキャリア組な印象もなく、うちではふつうのおばあちゃんでした (世間的なふつうかどうかはわかりませんが)笑。誠実さという意味では、祖母は母(僕の曾祖母) からこのような歌を聞かされてきたそうです。
上見れば及ばぬことの多かりき
下見れば我が身に敵うものはなし
笠着てくらせ己が心に
他人と比較することなく、地道に地に足をつけて一つずつ進んで行けということだと思います。近道を行こうとするなと。
そういう性格だからか、祖母はやらない人 (無気力に生きている人) には厳しいです。その点も僕と似ている部分だと思います。
自分を持つこと
祖母は、成功した部分については、周りのおかげ、諸先生方から評価してもらい、教え子が慕ってくれたからだと言っていました。それは自分があるからだとできることでもあると。
自分を持つことに関しては、自分がどうしたいかはっきり考えをもって、そのために自分のペースで進むということです。判断の基準はあくまで周りではなく自分、必要以上に同調をしなかったとの事です。自分があるからこそ、周りに流されることがないとの事。同調や周りに何もかも足並みを合わせる必要がないということです。周りがどうするかに関わらず、意に介さないことは一切やらなかったとの事です。例えば当時の祖母の同僚たちが、組合活動に励んでいたころには、組合活動は自分とは考えが違うので自分は関わらない、職場での関係に同調を持ち込まない。互助会の参加を断り、重鎮が説得に来てもその立場を貫いたとの事。そういう我の強さも一族でそういう特徴の人が多いらしく、いまの家族の中では僕が色濃く受け継いでいると言われます笑
教育方針としては、徹底していたことがあって、「教え子を怒ったり注意するときは、個別に呼び出す」ということ。人前で注意しさらし者にすることは絶対にしなかったそうです。そのせいか、特に男の子に慕われ、年の近い女の先生でよくありがちな「生徒になめられる」ということはなく、やんちゃをしてたような類の人からも慕われていたとの事。転勤後に教え子が転勤先に尋ねに来たり、やんちゃで手をつけられないような人が卒業後に毎年手紙やお中元、お歳暮を贈ってくるなど。女の教え子からは、怖がられていたとの事です笑。特に意識していたこととして、注意するときは、相手のためを思って怒れ、との事です。お茶のほうでも、同僚の人間関係を取り持つサポートをしたり、一見自身が表舞台で活躍するほうに目が生きがちですが、裏で相手を立てることをむしろ大切にしていたとの事です。
教師としては、決して華のある目立つタイプではなく、むしろ地味だったとの事です。同僚からも任された仕事は責任をもってやりきることを大切にしながら、信頼を勝ち取っていったとの事。人と人とのことなので、信用が第一、他人がこの人なら任せてもいいと思えるような仕事をずっとやり続けるということです。橋に例えるなら、鮮やかに飾った橋ではなく、例え不細工ではあっても、皆が信頼して渡れる橋を目指せ、そういう仕事をすることが大切だ、と。
僕への影響
僕は祖母に性格が似てる部分に加え、ある意味、祖母の英才教育を受けていたようです笑。僕は幼少期は両親が共働きで忙しいので、祖父母と多くの時間を過ごしました。僕は赤子のころは母乳を飲まないし、なかなか寝ない子 (なぜか車で寝るので、よく祖父にいろんなところに連れて行ってもらっていたとの事) で、手のかかる子供だったそうです。 赤子のころは、2歳までが大事だと、時間を決めて、言い聞かせ、読みきかせ、音楽を聞かせたり、日光浴に外に連れ出す等、をされていたとの事です。そのせいか、会話を覚えるのが早く、1歳児検診では、看護師さんに年齢を聞かれ、1歳と3か月と答えて驚かれたり、家族旅行では幼児にして仲居さんに絡んだり等、相手に物怖じしない性質はこのころから。小学生入学前にいとこから「1兆+1兆」は何になるか聞かれた際には2兆と即答して驚かれたりなど、効果はたぶんあったのだと思います。また、祖母が家で茶会を開いたりで、大人と関わる機会が多かったからか、落ち着いた会話は得意な反面、ノリと勢いが大事な若めの世代のコミュニケーションは苦手です笑。僕はキャリアウーマンや偉い人、だいぶ格上にあたる目上と関わっても全く緊張しないのですが、たぶん子供のころからそういう人と関わってたからなんだと思います。性格的には「親分肌の一匹狼」、血統なのか、そういう部分はよく似ていると言われます。
僕は、お茶、書道と、祖母がやっている習い事はほとんどできません。祖母は、こちらからやりたいと言い出すまでは、口出ししない人でした。子供のころ、漢字をかくのをサボっていて (ひらがなカタカナのほうが画数が少ないので、音が同じならこっちのほうが楽だと当時の僕は思っていました)、あるときそれではダメだと思って教えてくれと頼んだら、覚え方のコツや字の練習を毎晩付き合ってくれるなどして、赤点からまともなところに引き上げてもらいました。今では字を書く機会が少ないので、どんどん忘れてますが笑。一方で、やったことはよく褒めるし、やりたいと思ったことはできる範囲でやらせてくれる人でした。とにかく、こちらのやりたいことを下に押し付けない、その前に相手の意思を聞くこと。僕も今人を指導することもありますが、そういうことを大切にしています。
観光の話
ちなみに、祖父母の趣味はよく似ていて、二人とも旅行好き、史跡巡りが好き。そのため、若いころ、と言っても二人が70代後半くらいまでは毎年のように旅行にでかけ、祖父母でドライブで全国各地の県堺?を制覇したり。祖母は中でも海外旅行に良くいっていて、ヨーロッパ周遊、エジプト、中国 (当時日本人はVIP待遇を受けたとの事)、台湾等、各地を旅しています。例えば同時多発テロの標的になったワールドトレードセンターの最上階のレストランで食事したりなど (お茶の先生の一人、本人が言うところのサブメンバーとしてニューヨークに行った時の話、アメリカのお肉は祖母には固くて合わないと思ったそうです笑)。仕事では研究会で国内各地にでかけているので、仕事の業績はもちろんのこと、観光した国や場所の数でもまだまだ祖母に遠く及びません笑
こちらの写真は、僕がまだ母のお腹の中にいる時の写真です。僕が生まれた日、祖母は海外にいました笑。まだ腰が曲がってなく、若い祖母の姿は見慣れないですが笑。30年以上前の写真たちを、こうして並べてみるのもなかなか面白いと思います。観光したことをこうして切り取って保管するところは、僕のブログと通じるところがありますし笑。当時の航空券や領収書まで残ってました。アルバムに限らず、日記も毎日、約40年欠かさず今もつけているようで、デジタル化して一部公開してみても面白いと思いました。こうやって、昔のことを思い出してもらうほうが心身ともに良いと思うので、また昔のことを聞いてみようと思います笑
アルバム2
アルバム3
ちなみに、祖父の話はこちら等。
あいさつと約束と、祖父の教えと認知症_#402
https://ofuro-wa-shifuku-no-hitotoki.blogspot.com/2019/08/blog-post_17.html
京科学者のキレイになる実験ほか_ブログ内神庭研究室
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