研究室主催者の最終選考で落ちた結果、研究費と仕事を失った後のブログ投稿では、ある意味作風を変えて、ある意味感情を込めるというか、魂を乗せると言いますか、そういう人としての心の部分をねじ込む形が中心になるように切り替えました。元々、研究が本業だった時は、そこまでリスクを取らずに、ブログはついで的な感じで取り組みたかったです。表に出した情報が、第三者を経由して意図しない形で拡大され、それが裏目にでるのは私も正直怖かったですよ。
発信がもたらす怖さと不安
どんなにこちらが気を付けて発信しても、情報を解釈するのは他人です。その結果、「解釈」というフィルターがかかって、発信した側が意図した側とは違う意味が肉付けされてしまうことがあります。例えば、研究が本業だったころは、論文や特許のような形で公式に発表されていない研究内容の発信はしない (プレリリース的な投稿はしない)、機密情報は当然として、プライバシー等に係る情報は発信しないことを遵守してましたが、人によっては、ブログなどという媒体で少し何かを書くだけで、情報をダダ漏らしにしているように、「読みもしないうちに決めつけて」しまう人も一定数いると思います。文章の一部がどんな形で切り取られ、どんな風に使われるかはわかりません。そういうリスクをはらんだ行動だと思います。正直、多少なりとも不安はあって、本業ではないことを言い訳にしながらふわふわやっていました。
- 誤った解釈、中でも自分に不利な解釈が伝わって変なイメージがつくかもしれない。
- 伝聞のなかで更に曲解されて、猶更よからぬイメージを持たれるかもしれない。
- その結果、研究をやる上でマイナスに働く可能性、最悪干されるかもしれない。
- 突き抜けたら突き抜けたで、扱いにくい奴、というレッテルを張られ、それが不利に働くかもしれない。
- 仮に私のブログが犯罪者に取り扱われたら、実際は何も関係なくても、私まで犯罪に関わっているようにみられるかもしれない。
未来を紡ぐために、感情を乗せる覚悟を決めた
このようなリスクがあったので、正直、これまでわざと中途半端にやってきました。もっと具体的に言えば、所謂バズるような投稿を避けるようにやってました。実験科学者としての仕事みたく、事実を淡々と描く形態、グルメや観光、考え方的なコンテンツのほぼ全てで、写真と言った第三者的にあるいみ客観的にみれるコンテンツを出して、解釈はそっちで勝手にしてね、的な方針でやることが多かったです。ところが、いろんなものを失い、このブログに再起、私の明るい未来への足掛かりを託すことを考えると、心の部分を乗せる覚悟を決める時がきたな、と思いました。そしてそれを乗せた結果、この前の二回分のコンテンツは、研究の世界を超えて広く一般に届き得る内容で、私の過去の投稿と比較すると、圧倒的にバズる可能性をもったコンテンツになった、逆に言えば後に引けないものを出してしまったなと、やってる側としても不安がありますよ。多くの人に見られるかもしれないコンテンツにしてしまうということは、それ相応にリスクを背負うことを意味すると自覚しています。コアなコンテンツに留めない場合、全く関係ない人に二次的、三次的に曲解されるリスクをはらんでいます。もし私を雇う人がいたら、こういうの書いた人を知ってて雇ったってことだよね、とその人らが言われる可能性をはらんでいると思います。実は失ったものの方が大きい可能性すらある行動に思います。
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