やっぱり人生は好き嫌いするよね、という話
私自身、自己犠牲という選択肢はあるし、必要だと思えばやります。ある意味、自分を「捨て駒」として使ってでも、誰かに活路を残す選択ということですが、私にとって、最終手段に近い位置づけで、やらなくて済むなら基本的にやらないです。
- 家族が危険で、ここで体を張らないと危ない、みたいな極論の状態になったら選択肢に入る
- でも、例えば子供がいるからといって、自分の趣味とかのお金や時間の全てを子供に全部利する生き方はやらない。(ATM的な夫になることはない)
したがって、だめんずを支えて沼る女、みたいな形のあるいみ自分を放り投げて支えるみたいなやり方は基本的にしません。とはいえ、これは、主体として「私の幸せ」が先に来て、それを「犠牲にしてでもだれかの幸せを優先する」、という択です。従って、私が幸せか、そうでないか、私が苦労するとか耐える必要があるか否か、みたいな基準になります。
従って、研究を裏で支える仕事はできないけど、研究以外の職種を支えるのは苦にならない、みたいな歪みが起こります笑
- 技術職員とか行政などのような形で研究業界をサポートする形にいかなかった理由は、「ポルノグラフティ」の「アゲハ蝶 」の歌詞のごとく、私がやりたかった研究が「近づくことにできないオアシス」という位置づけになってしまいます。これは、元カノと一生付き合えないとわかっている状態で、元カノに未練がある状態で別の男と元カノの生活を執事とかみたいな形で支えるようなものです。だから能力的に向いていても感謝されても、何人後進の人生を救うことができたとしても、絶対に嫌、と思います (研究に関わるなら、自分がプレイヤーでありマネージャーであることは譲れません)。
- でもこれが研究以外の業界になると、相手が元カノの位置ではなく、新しい目標になった時点で彼女の位置になるので、支えることが病まないどころかむしろ積極的に選び得る選択肢に入ります笑。
面白いことに、人間の心というものは、「チェス盤の上の駒」のように見れるほど簡単ではないですよ。打算で人間を理解した気でいるやつは、考えと見通しが甘すぎると私は考えています。
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