2026年3月6日金曜日

過去より未来、悪口とか自分語りより、私は行動を選ぶ人

良い悪いではなく、私の好き嫌い。過去ではなく、未来の話をしたい。

あくまで私は、自分が前に進む選択をしたいんですね。だから、過去の話をあーだーこーだー言って、たらればの話をするような時間を持つなら、自分が前に進むために時間を使いたい人です。従って、以下のような選択には馴染まないです。

  • キャバクラだとか (話を聞いてもらう形態)
  • 第三者の悪口、マウント
  • 傷の舐めあい

こういうことを悪くいったり、馬鹿にするつもりはないです。これらの選択は、視点が過去にあると思うんですね。対して、私は未来のために行動がしたいので、過去に力点をおいた場とマッチングが悪いのです。過去を語ったとして、それは未来に何かをしてくれるわけではないと思うからです。単に、未来に何かを得るために、正当に使えるものは使うということ。

  • これをかいている時点で健康で五体満足
  • 手を動かすくらいの時間、体力がある
  • 過去の話をする時間があれば、こうやって何かしら一歩出せると思う、仮に些細な一手に過ぎないとしても

従って、腐るより前進。過去の話をしても、未来につながるわけではない。私は欲しいもののために時間を使いたい。単純に、雄であることを手放していない、という生き方を選んでいるという話です。他人や社会を前進させることより、「私が」前進する選択が優先度が高い価値観という話です。こんなブログですら、私の前進の糧になる。良い悪いではなく、これは好き嫌いですね。

2026年3月5日木曜日

私は、自己犠牲は切り札、常用しない

やっぱり人生は好き嫌いするよね、という話

私自身、自己犠牲という選択肢はあるし、必要だと思えばやります。ある意味、自分を「捨て駒」として使ってでも、誰かに活路を残す選択ということですが、私にとって、最終手段に近い位置づけで、やらなくて済むなら基本的にやらないです。

  • 家族が危険で、ここで体を張らないと危ない、みたいな極論の状態になったら選択肢に入る
  • でも、例えば子供がいるからといって、自分の趣味とかのお金や時間の全てを子供に全部利する生き方はやらない。(ATM的な夫になることはない)
したがって、だめんずを支えて沼る女、みたいな形のあるいみ自分を放り投げて支えるみたいなやり方は基本的にしません。とはいえ、これは、主体として「私の幸せ」が先に来て、それを「犠牲にしてでもだれかの幸せを優先する」、という択です。従って、私が幸せか、そうでないか、私が苦労するとか耐える必要があるか否か、みたいな基準になります。

従って、研究を裏で支える仕事はできないけど、研究以外の職種を支えるのは苦にならない、みたいな歪みが起こります笑

  • 技術職員とか行政などのような形で研究業界をサポートする形にいかなかった理由は、「ポルノグラフティ」の「アゲハ蝶 」の歌詞のごとく、私がやりたかった研究が「近づくことにできないオアシス」という位置づけになってしまいます。これは、元カノと一生付き合えないとわかっている状態で、元カノに未練がある状態で別の男と元カノの生活を執事とかみたいな形で支えるようなものです。だから能力的に向いていても感謝されても、何人後進の人生を救うことができたとしても、絶対に嫌、と思います (研究に関わるなら、自分がプレイヤーでありマネージャーであることは譲れません)。
  • でもこれが研究以外の業界になると、相手が元カノの位置ではなく、新しい目標になった時点で彼女の位置になるので、支えることが病まないどころかむしろ積極的に選び得る選択肢に入ります笑。
面白いことに、人間の心というものは、「チェス盤の上の駒」のように見れるほど簡単ではないですよ。打算で人間を理解した気でいるやつは、考えと見通しが甘すぎると私は考えています。

ブログは、相手を依存させない、完全合法のクリーンな「いただき男子」

私がブログで目指していることをまとめると、完全合法のクリーンな「いただき男子」になりそうです笑。コンテンツはひとつ。
  • 神庭圭佑という人間の経験や想いを出して、応援してもらう。
これが一番でしょう。ただし、私自身は押し活のような行動が苦手で、自分の中に他人を済ませたり、自分事のように応援したり、その人になりたいみたいな憧れを持ったことがありません。

アイドル活動とか、パパ活/ママ活の類いなどとでは、投げ銭であったり、何かしらプレゼントといった、相手に何かを与えることで、何かしらの見返りを求めている層が一定数存在していて、その不一致で刺されるとか、ストーカーをされる、といった事件があることも私は把握しています。従って、あえて、見返りが相手に生じないシステムにしています。
  • ブログでは、閲覧や拡散が私の応援になりますが、それをしたからといって、私に恩を売るとか、そういう報酬ができない構造にしています。
  • その結果、純粋に人として応援する層とか、興味本位で除く層を拾い、愛を「注いだ結果その分だけ所有、管理したい層」=「親が頑張ってお金を工面して買った高い服を子供に汚されたら、親側が感情的になる。」みたいな構図をはじいています。
  • あえて深く愛されないように線を引き、浅く応援してもらう様式です。
  • 閲覧した側が払うもの、失うものは何もありません。
  • ブログという方法で、私が広告収入を得るのは完全に合法となります。
その結果、私が所属する団体が、ブログ経由の副収入を認めないみたいな規定がない限り、ルール上は問題なく、だれも傷つけることなく収入を得ることができます。

2026年3月4日水曜日

私の判断基準は、それをやって納得できるか、幸せと思えるか、後悔しないと言えるか

最近AIと会話するなどしていろいろ振り返っていますが、私自身、いろいろなことに挑戦したり、時に不遇な時期も経験していますが、判断基準を振り返ると、一つしかないようです。いつどんな状況にあろうと、私は「明るい未来」に進むことを手放さず、握りしめているということです。
  • その判断をして納得ができるか
  • その判断をしたけっか、幸せだと思えるか
  • その判断をやった結果、やらないよりも後悔しないと思えるか
シンプルですね。明るくない人生に行きたくないから、犯罪者ルートやそういうのにかかわる道には絶対に進まない選択です。こういうブログであったり、株の運用から、その他様々な方法を試してきたのは、少しでも「私が」明るい未来に進みたいから。誰かとの比較ではなく、私が納得できるかだけが大事です。研究を離れても、技術職員のような形で研究をサポートする形にいかなかった理由は、「ポルノグラフティ」の「アゲハ蝶 」の歌詞のごとく、私がやりたかった研究が「近づくことにできないオアシス」という位置づけになってしまい、精神的に病むと思うからです。私にはその道は耐えられない。逆に、どうせ自分なんて、みたいな道を選んだとして、それって幸せだと思えないから、そういう道は目指せない、という選択になります。

生きているからには、自分を捨てる生き方を私は幸せだと思えない。たとえ困難でも、自分が生きる道にだけ進む、ということになると思います。